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  ツナミ被災地の訪問   ⇒目次 ⇒六車農園

2012.1/14(土)、晴れ
 福島県いわき市のつなみ被災地に行ってきました。これまでも行きたい気持ちはあったのですが、力仕事もできないので躊躇していました。しかしマスコミで、被災地に行って実状を知るだけでも貴重だと言っていたこともあって出かけたものです。行ったのは、美空ひばりも歌っている塩屋崎灯台の北側の薄磯地区と南側の豊間地区です。
  
(Googleマップによる航空写真と地図)
 

 下の写真(Googleより)は灯台の北側の薄磯地区のもので上の写真の赤い四角の部分です。茶色に見えるのは木材などのがれきの散乱している状況と思われます。地震直後、たぶん3月末のものでしょう。


 行ってみるとガレキは一カ所にうず高く積み上げられ、家々の跡を示すコンクリート土台が延々と広がる荒涼とした風景でした。海岸道路のすぐわきに鉄筋コンクリートのビルがポツンと残っていました。上の写真では海岸近くの道路のすぐ左にある灰色の四角いものだと思います。


 幅200m、長さ1Kmくらいの海岸は見渡す限りの平地です。コンクリートの跡を見ると家がびっしりとあったのが分かるのですが、現在は原野に戻っているような感じです。土曜日で風も強かったのですが歩いている人は一人もいませんでした。道路もきれいに清掃されていますが、2,3台の乗用車と会っただけでした。


 集落の山側に小高い丘が付き出ており、その下にある防空壕か物品保管用の横穴を見ることができました。普段は現代ふうの家に隠れていたのでしょうが、まるで原始時代の横穴を見ているような光景です。ツナミに洗われたのでしょうがちゃんと残っていました。この丘には上に登るコンクリートの階段が付いており、3.11には大いに避難救助に役だったと思われます。


 中学校はもちろん一人の生徒もいません。校舎の脇には昨年3月に出ていた垂れ幕が下がったままです。校庭らしき所にはガレキが積み上げられています。ガレキは遠くからではただのゴミとしか見えません。


 ところが近寄ってみると、木材や建材の一部と思われる金属板やコンクリートのガレキの間にカラフルな衣類かと思われる布切れなどが引きちぎられて混じっています。人々の生活を感じさせるものも多く本当に言葉も出ませんでした。10ヶ月もたつのにいまだに大変な状況が残されていました。


 灯台下の土産物屋さんにいろいろ話を聞いてみました。中学校は3.11当日は終業式の日でほとんどの生徒は下校していたとのこと。部活の生徒が少しいたそうですが彼らは山側に避難して助かったそうです。
 この地区は昨年11月1日から一般の立ち入りが解除されたそうで、みやげ物店は開いているが食事はまだ出せないとのこと。来てもらって嬉しい、現状を見てほしいと言っておられました。
 また住人の多くはリアス式海岸ではないのでツナミは来ないと言っていたそうです。薄磯と豊間を合わせて200人くらい亡くなったと聞きました。

 話を聞いているうちに12時に近くなったのですが、駐車場の車も増え、大型観光バスもやってきました。ツナミの跡地を見に来たのでしょう。観光バス?と、驚きましたが私も見に来ただけなので同じようなものです。

 南側の豊間地区。ここも海岸寄りの部分は見渡す限り土台だけになっています。


 放射線量は、南側になる小名浜市街地では
(0.10+0.18+0.16+0.05)/4=0.12μSv/hで、それほど高くはありませんでした。

 ただし、塩屋岬灯台(現在は崩れている部分があるため立ち入り禁止)への急峻な登り口付近は下記のようにやや高めでした。崖に当たった放射能を含んだ雨がしみ込んだためだろうと思います。
(0.23+0.32)/2=0.28μSv/h

 帰りに小名浜市街地に戻って昼食を食べましたが、海鮮丼が2,000円はちょっと高かった。よほど素晴らしいものが出てくるかと思ったが、東京などの700〜800円の海鮮丼とほとんど同じ内容。違う点はウニがあることと、カズノコの小物が付いていることくらい。漬けものとみそ汁は同じ。見栄えも良くない。1,000円か1,300円くらいのものか。
 なお、魚は小名浜漁港にはまったく上がらず、すべて外部からの取り寄せとのことだった。それも海鮮丼の高い原因かも。2000円としても寄付と思えば僅かなものですが。

 そういえば小名浜市街地の道路は1車線を通行可能にして他の車線を1mくらいも掘り下げて工事しているような所があちこちにありました。地震の後始末なのでしょう。


  

 

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