_
 
    尖閣諸島、竹島の研究   ⇒目次 ⇒六車農園

2012.10/1(月)
 尖閣諸島、竹島の領有権について、日本は中国、韓国と互いに自国領土だと主張する状態が続いており、解決の糸口が見えません。

 私なりにいろいろ考えてみました。その結果、各国が自国領土だと主張するのは次のような認識のすれ違いが起きているのではないかと考えるに至りました。

事情の整理・・・16,7世紀ころから19世紀にかけて世界の各国はどこの国にも属していない島を自国領土とする獲得競争をしていました。無人島はもちろんのこと、南の島々やアメリカ大陸においては人が住んでいても西欧諸国が認識できる形での領有宣言をしていない場合には勝手に自国領にしていました。(人が住んでいる場合、その後の独立運動で覆ったケースはあります。)

 そのやり方が国際的なやり方と学んだ日本は、尖閣諸島を1885年から調査して無人島でありどの国も管理していないことを確認して1895年1月に日本領土に編入することを決定し(現在の)沖縄県石垣市の所管としました。また竹島も無人島でありどの国も管理していないことを確認して1905年1月に島根県隠岐島司の所管としました。

 ところが、1895年1月の中国は清朝末期であり日清戦争(1895年5月日清講和条約で終結)の最中でもありとても無人島の問題など考える暇はなかったのでしょう。

 一方、中国の冊封を受けていた朝鮮国は、日清戦争の結果により1897年に中国の冊封国から独立して大韓帝国となりましたが中国に代わって日本の影響を受けることになりました。そして1904年には日露戦争が起き、1905年には第2次日韓協約が結ばれ、日本は大韓帝国の外交権を接収しました。そのような状況ですから、大韓帝国は1905年1月には無人島の問題など考える余裕はなかったでしょう。

認識のすれ違い・・・つまり日本の立場に立てば、尖閣も竹島も無人島でありどの国も管理していないと確認できたから西欧各国で国際的に通用していたやり方に従って領土としたものである、何の問題もない、となります。ところが中国、韓国の立場に立てば、あの当時は国内がごたごたしており、その隙に日本が自国領土にしてしまったものだ、我々は昔から島の存在は知っていたのだから返せとなるのでしょう。

 「無人島でありどの国も管理していないと確認できた」ら自国領にして良いというのは国際的な正しい理解のようです。また尖閣、竹島とも誰も定住していないという意味では無人島だったようで、これは中国、韓国も異論はないようです。また日本漁民は漁をしてしていたようで、写真なども残っています。

 問題は「どの国も管理していなかった」のかどうかの考え方のようです。尖閣諸島は中国が管理していた、竹島は韓国(朝鮮国や大韓帝国)が管理していたと言えるのでしょうか?

 中国も韓国も島を知っていたことは間違いないようです。しかしその程度ならば、尖閣諸島は琉球すなわち現在の沖縄県も知っており、また漁民を通じて島根県や日本国も知っていたようで、これは水掛け論になりそうです。

 こう考えてくると、19世紀末の時点で、尖閣諸島を清国は管理しておらず領土ではなく、竹島を大韓帝国は管理しておらず領土ではなかった、ということが正しいように思えます。これを中国、韓国は昔から自らの領土であったと言っているようです。領土の認識の違いがあるようですが、「管理していた」といえるほどの資料はどの国も示せていません。

 尖閣諸島において中国は、また竹島において韓国は、平たく言えば、近代的な領土化の競争に「出遅れた」といえそうです。これに対して、日本はタイミング良く国内が落ち着いて国際的な法律や習慣ををよく勉強し、漁民が出向いている無人島を誰も管理していなかったので領有化したと言えるようです。

 もし中国、韓国の漁民が尖閣、竹島で漁業を行なっており、中韓両国がそれぞれ先に国際法的に通用する方法で領有化した場合、それに対して日本は(日本からの距離の方が近いからとか何とか言って)日本の領土であると主張したでしょうか?

 2012年9月27日、中国の外務大臣は国連の演説で「日本は釣魚島を盗んだ」と発言したそうです。偉い人なのでしょうに、なんとまあ品のない演説かと思います。私の今の感覚としては、家の郵便受けの脇に置いてある花の咲いているプランターを見て、その花が欲しくなり、通りかかったジャイアン(←ドラえもんに出てくる)が、
「この花は昔からオレのだった、この家はオレの花を盗んだ、返せ、返さないとどんなことになるか分かってるんだろうな」
と声高にわめいている構図が思い浮かびます。中国人の感覚では100回くらい叫べば他人も信じるようになる、ということなのでしょうか?

 インターネットに出ていたものの転載ですので間違いがあるかも知れませんが、下の感謝状は、大正9年(1920年)に中国漁民が日本の尖閣列島近くで遭難したのを助けた石垣島村民に贈ったものです。こんなふうに仲良くやれないものでしょうかね。


 下の地図もインターネットに出ていたものの転載ですので間違いがあるかもしれませんが、これは1960年に北京市地図出版社が発行した世界地図集の一部だそうです。これを見ると、日台の国境線は妥当な所に描かれ、しかも台湾(中華民国)のことを中国ふうに中華人民共和国と書いてあります。その地図に、魚釣島、尖閣諸島と日本ふうに書いてあるということは、尖閣諸島は日本領であることが当然のこととして描かれているとみて良さそうです。その後、1967年発行ころまではこのような描かれ方をしているそうです。ということは中国の現在の主張は歴史を改竄しているのでしょうか?



2012.9/20(木)
 中国が魚釣島などの尖閣諸島を古来からの中国領土だとして、日本の実効支配を崩そうと様々な行動をしています。これに対して、日本人は自民党から共産党までほぼ完全に一致して、尖閣諸島は日本の領土だと主張しています。

 一方、中国政府は「右翼」とか「一部の者」が騒いでいるだけだと発言しています。(2012年9月20日 時点)

 また日本のあるビジネス雑誌では、記者の知人である中国人が「いまだに中国は建国からの歴史が浅く苦しみもがいていることを理解してほしい」という発言を載せています。しかし、そのような一方で中国は、手段を選ばず他国に棒をねじ込ませて既成事実を作って領土を広げようとしているように見えます。チベット然り、フィリピンやベトナムの近海での行動然りです。「大変な状況」と同情を求めるような声も相手を油断させる外交戦争の手段ではないのでしょうか。

 本当に「大変な状況」ならば、協力してくれ、力を貸してくれと頼み込んでくるのが普通のやり方でしょう。周恩来や鄧小平の頃はそうであったからこそ、パナソニックは冒険ではあったが率先して中国に工場を作り、日本の産業界は大きな溶鉱炉や鉄工所の建設に協力してきたはずです。

 自分たちの意にそわない場合は、デモ隊による暴力を許し、経済発展に協力した企業にもう用は済んだから出ていけと言う姿勢であり、運んで行った輸出入品を港湾で禁止し、観光客を直前にキャンセルさせ、総力をあげて圧力をかけています。これが「仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現」を説いて回った孔子の国のやることでしょうか?、違和感があります。

 個人的な感想ですが、中国でのデモ隊の映像や尖閣に押し寄せる1000隻とも言われる漁船など、数で押しまくるやり方に怖さを感じます。近隣諸国を威圧して従えるのが中国の国策なのでしょうか?

 実は私は、2012年3月、北京の中国知的産権訓練センターの招聘で講演をしました。私の研究していることを広めたい気があり、また将来のこともあると考え、謝礼なしで行いました。なんとか中国には世界と足並みをそろえて穏やかに発展していってほしいと願っています。

 ところで日本のマスコミでは、日本に留学している中国人女性が次のように主張していました。
「尖閣諸島は古来から中国領であったのに、清朝末期のごたごたに乗じて日本が占領した。」
 このような中国人の発言は何度も聞いた記憶があります。その主張の理由は何でしょうか?

 気になることがあります。ニューヨークである白人女性へのインタビューで「今はまだよく分らないのでこの問題に答えたくありません。昔は中国の領土だったのを日本が奪って実効支配しているのでしょうから。」という発言です。つまり、昔は中国領土だけど今は日本が実効支配している、というように考えている人が世界にはけっこう多くいるのかもしれない、ということです。もしそれが正しいのであれば、日本人が間違ったことをしていることになります。

 尖閣について冷静に、本当のところを知りたいと思います。もし、中国が古くからずっと自国領土として管理していたのならば、中国に返還すべきでしょう。
 しかし、誰も管理していなかったのであれば、最初に領有を主張した国の領土になるのは国際法による秩序のようです、詳しいわけではありませんが。
 このような約束は人類がたどりついた知恵です。つまり、以前は力任せに他国に侵入して切り取り勝手であった帝国主義時代がありました。その最後の戦いとして2度の世界大戦がありました。そしてとうとう米ロをはじめとして、人類を何百回も絶滅できるだけの核兵器を持つにいたりました。これらの結果、少なくとも世界をリードする国々では「最初に領有化を主張した国の領土は侵害しない」ということは常識化しているのではないでしょうか。

 もっとも中国は、チベットの例をみると人が住んでいても「一時期中国だった所は全部中国だ」と力が弱い国に対しては乗り込んできます。そういう意味では常識が通じない国です。しかしとりあえずそのことは置いておきます。

 尖閣諸島に限って調べてみます。日本政府の主張は外務省のホームページには次のように出ています。

>尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により
>再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、
>清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月
>14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国
>の領土に編入することとしたものです。
> 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部
>を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が
>清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。

 日本の国会図書館から「尖閣諸島の領有をめぐる論点」というものが出ています。それによると次のようなことが書かれています。たくさん書いてありますので、一部のみ抜粋します。

(1)もっとも古いもの・1556年、明代
>尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとの説は、『日本一鑑』(1556年)の
>中の、魚釣島についての記述、「小東(台湾を指すとされる。)之
>小嶼也」が根拠の一つとなっている。
>しかし、当時の中国は、台湾を統治しておらず、統治の意思もなかっ
>た。例えば、明の正史である『明史』では、台湾は東蕃として「外国
>列伝」に入れられ、台湾北部の雞籠山も「外国列伝」に含められてい
>る。仮に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であったとしても、台湾が中国
>の領土でなければ、同諸島が中国に属することの証明にはならない。
>これに加えて、『日本一鑑』が著された時代、台湾に統一的な政府が
>存在していなかったことを鑑みれば、「小東之小嶼也」は、魚釣島が、
>政治的にではなく、地理的に台湾に付属するとの意味であったと考え
>られる。

 中国の資料に記録として残っていることは素晴らしいことですが、結局誰のものでもないということの裏付けにしかならないと思います。

(2)見方によっては一番古いもの
> 1372年から1879年まで、琉球国と中国は、朝貢・冊封関係にあり、
>琉球と福州との間で、朝貢船、冊封船が往来していた。(途中省略)
>久米島について、『使琉球録』(1534年渡琉)では、「乃チ琉球ニ属
>スル者ナリ」、『中山伝信録』(1719年渡琉)では、「琉球西南方界
>上鎮山」と述べられている。また、『重編使琉球録』(1561年渡琉)
>には「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」、『使琉球雑録』(1683年
>渡琉)には、赤尾嶼と久米島との間にある「郊」の意味について
>「中外ノ界ナリ」との説明もある。
>しかし、これらの記述から明確に読み取れるのは、久米島が琉球に属
>することのみであり、赤尾嶼(尖閣諸島)の帰属については何ら述べ
>られていない。
>尖閣諸島は、福州と那覇のほぼ中間地点に位置し、航路目標として有
>用であったことなどから、冊封使は、尖閣諸島を中国の領土と意識し
>て、久米島からは琉球領に属すると記述したのではなく、同諸島を航
>路の目標として記述したと解すべきであると反論される。
>また、『使琉球雑録』の「郊」や「中外の界」とは、冊封船の航路を
>横切って流れる黒潮の存在や当時の海上信仰を考えれば、国の内外の
>堺という意味ではなく、水域あるいは海流の内外の意に解した方が、
>より妥当であるとの指摘もある。

 これは、もし私が中国人なら、尖閣諸島を古来から中国領であったという最も有力な資料と思うことでしょう。「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」と言っているのならば「中国内であるから自国領とあえて言わなかったのだ」と言いたくなります。
 しかし、誰もいない島であれば「赤嶼は我が国の最先端なり」とか何とか言っておかねば、誰も管理していないと言われても仕方ないと思えます。

 (3) 林子平の『三国通覧図説』
>江戸時代の経世家、林子平が著した『三国通覧図説』(1786(天明6)
>年)の付図「琉球三省并三十六島之図」は、色刷りの地図である。
>ここで、九州などが緑色、琉球王国領は薄茶色であるのに対し、尖閣
>諸島が中国と同じ桜色で塗られていることが、尖閣諸島が中国領であ
>ることを、日本人も認めていた証拠として挙げられることがある。
>しかし、この地図は、台湾が正式に中国に編入されて以降に作成され
>たにもかかわらず、台湾を中国とは異なる黄色に塗り、その大きさを
>沖縄本島の3分の1に描くなど、不正確な点も多い。そもそも『三国通
>覧図説』は、林子平が私人の立場で書いたもので、日本の政府の意思
>を反映したものではない。

  この資料は中国人側がときどき持ち出す資料ですが、よく分らない辺境の地について、適当に書いているだけのものと思っていいでしょう。

(4)日本への領土編入
>日本は、「尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の
>方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であ
>るのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認
>の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なっ
>て正式にわが国の領土に編入することとした」。
>他方、中国は(最近になって)、中日甲午戦争(日清戦争)を通じ
>て、日本が尖閣諸島をかすめとり、さらに清朝政府に圧力をかけて、
>1895年4月に馬関条約(下関条約)に調印させ、台湾とそのすべて
>の付属島嶼及び澎湖列島を割譲させたと主張している。(途中省略)
>1895年4月17日、日清両政府は「日清両国講和条約」(明治28年5月
>13日勅令。以下「下関条約」という。)に調印した。
>講和条約締結に向けた談判中、清国は、日本からの台湾、澎湖諸島
>の割譲要求に対しては、強く反対の立場を主張していたが、尖閣諸
>島の地位については何ら問題にしなかった。もし、清国が尖閣諸島
>を自国領と認識していたならば、台湾や澎湖諸島と同様、尖閣諸島
>の割譲についても異を唱えていたのではないだろうか。

 清国(中国)は尖閣諸島に対しては自国という認識はなかったとみなされても仕方がない、と思われます。中国が「日清戦争で割譲した」と主張するのは間違いだと思えます。

 中国の古い記録にあることは事実のようですが、中国が自国と認識した形跡はないように思うのは、私が日本人だからでしょうか。それとも、その立場でまとめてある国会図書館の資料を見ているからでしょうか。


 ■ コメント訂正依頼 ■          ⇒個人メール

  

 

接続回数(2009.9~)