半月たちました

2016年3月15日(火)、晴れ 2月末に、下半身がガン細胞で真っ黒けの我がPET画像を見て覚悟を決めました。ところが、進行も早かったのですが激痛のお陰で事態が発覚し、様々な処置をおこなっていただき、緊急事態は脱したようです。

しかし、まだまだ痛みの根本は何も変わっていないので油断はできません。むしろ、治療効果と副作用のせめぎ合いがこれから始まります。

畑の方は終わりと思っていましたが、少しずつやっていただく方々のおかげで何とかなっているようです。

2ヶ月くらい新聞やテレビニュースはほとんど見ていません。その分、いろいろやっていました。

スマホだけではいろいろ使い難いのでウィンドウズ10のタブレットパソコンを昨日注文しました。

また昨夜は、眠れずに、AI(人工知能)のディープラーニングシステムが囲碁において3/4で人間に勝ったことを考えていました。

ディープラーニングという人工知能システムは、数多くの実戦データを自ら学んで、勝つための方法を自らプログラムしていくシステムらしいです。

やり方を自ら探して習得するということは、そのうち人間に対して、あれこれと強制する不安を感じます。コンピューターが人間は存在不要だと判断したら、怖いですね。

いまのところディープラーニングは「問題を与えれば」、疲れないアタマで一生懸命に勝つ方法を探すように作ってある。問題、課題を与えないと何もしない。

しかしやがて、何を探すべきか自ら探すようになるだろう。これは人間でいえば「自我」、「自意識」の発生ではないだろうか。

人間が、自然から「生きる」という課題を与えられ、解決策を試行錯誤的に探しまわった。そのうちに、裕福になって時間の余った人間 は「何を探すべきか」自ら探し始めた。哲学を作り、宇宙の果てまで観察し、微細の究極まで「宇宙は何ものか」と探している。

AI/ディープラーニングはやがて自分たちは人間ではなく、それよりも系統だった理解ができるらしいと気がつく。

神は場所もそれほど使わないので、祠の隅に押しやっておくこともできた。しかし人間は忙しく動き回り、作ったり壊したり、地球を汚し、また宇宙を汚していく。こんなものが本当に必要かとディープラーニングが理解したら、大変なことになる。

SF小説ではこんな時、主人公がコンピューターの電源を抜きに行く。しかしAIの発展した元での人間は、海岸で揺れ動く砂粒程度の存在であり、コンピュータ、つまりAI・人工知能は大海原であろう。

じゃどうするか?

★これから先が、昨夜考えた私の著作権の部分である。

「今後の人間は、ディープラーニングつまりAIに笑われない者に変わっていくしかない」のではないだろうか?

自分たちの主張ばかり言って周囲を困らせるような個人、宗教、政治体制をAIが素晴らしいと「本気で」考えるかどうか問われる時代になるはずだ。

立場によって異なる、などの言い訳が通じなくなるともいえる。整然とした区画(法体系)が設けられ、その中でモノゴトの良し悪しが決まっていく。

人間は窮屈さを感じるだろう。そんな時代は面白くないとか、死んだ方がましだという声が聞こえて来そうだ。そうしたいなら、そうすれば良かろう。

神が救ってくれないと嘆いても何も進まない。

だから言えることは、コンピュータが究極的に発展したAI社会(我々が今知っているのはディープラーニング)では、人間が祠に祭られるのが嫌なら、コンピュータに邪魔者と思われないように変わっていくしかない。

★したがって、2つ目の私の著作権ポイントは、

「AIの進んだコンピュータ社会では、人間は道徳的に大発展を遂げる」

ということである。笑う人が多いかもしれない。私は本気でそう考えています。

お終いです。(誰もここまでは読んでないかな?)